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高校を卒業して、私は就職。社会へと出ました。
その会社は小さな印刷会社で、私にはぴったりの仕事でした。与えられた仕事を、パソコンに向かってやっていればいいんですから(今は違う会社に勤めていますが、同じような仕事をしています)。 周りは、私より年上の大人たち。 みんな、私の顔のことを聞きたかったろうけれど、何も言ってはこなかったので、私も話さなかった。もちろん、耳のことも。 社会人になって、私は初めて居心地のいい場所にいられるようになった。 社会人に、私は初めて素の自分をさらけ出せるようになった。 私はそれに甘えてしまい、学生時代の辛かった記憶を次々と封じ込め始めた。 顔のことをあまり気にしなくてすむようになってから、今度は、右耳のことが気になるようになった。 右耳がよく聞こえないということが、とても困るようになったんです。 内線で名前を呼ばれても、周りが騒がしいと聞こえなくって、返事をしない。すると、当たり前だが怒られる。 これが何回かあって、ヤバイなって思うようになった。 たまに、お客様からの電話に出なければならない時もある。それは受話器を左耳にあてて聞くんですが、そうすると何故だか、周りの雑音、受話器から聞こえる声、音の全てが左耳にブワッと入ってくるような感覚になり、慌てた。 聞き取れなくなるときがあるからだ。何度も何度も聞き直したこともある。 もし聞き間違い、聞き落としがあったら、それは仕事のミスにつながり、そのミスは会社の信用につながる。つまり、自分だけの問題ではなくなってくる。 だから、電話がすごく怖かった。 それでも、耳のことは誰にも話さなかった。 年に1回の健康診断の聴力検査。それまで右耳は高音だけは聞こえていたのだが、ある年、それすらも聞こえなくなっていた。確実に、右耳の聴力は落ちていた。『高度難聴』という診断結果を見た時は、さすがにショックだった。 ただ、左耳は正常だったので、日常生活を送るには問題がなかった。 この頃から、今まで向き合うことをしなかった小耳症について、考え始めるようになる。 それは、他の人達から比べると、かなり遅い方だと思う。その時の私はすでに成人をして、数年が経っていたのだから。 まずは、私が聞くまでは何も話さなかった母から、少し話を聞く。最初、何も教えてくれないかもと思っていたが、母はあっさりと話し出した。母は私から聞いてくるのを待っていたのかもしれない。 いろいろと知るようになって思ったことは、母への申し訳ないという謝罪の気持ちだった。それまで何も考えてこなかった私にかわり、母はいろいろと手を尽くしてくれていたのだ。 これからは、自分で考えて自分で結論を出さないといけない。 そんな時、私にとってはテレビドラマや小説の中での出来事のように思っていたことが、身近で起こった。 それは私にとって、自分の生命について考えされられる出来事だった。 この世に生まれてきた意味はなに? 小耳症で生まれてきた意味はなに? 私はこのまま、何もしなくてもいいの? いろいろと考えた。 正直に言えば、小耳症でなければ良かったとは思う。 小耳症で顔面神経麻痺もあったから、いじめやからかいの対象になった。奇異なものを見るような視線を感じ、傷つくこともなかった。 人より多く、泣くはめになった。 今でも消えない無数の傷を心に負わされた。それに苦しめられることもなかった。 でもそれは、受け止めなくてはならない。 私はこうして今、生きている。 この世には生まれてきたくても、生まれてこれない命もある。 生きたいとどんなに願っても、生きれない命がある。 私はちゃんと、生きていかなくてはならない。 そう思うようになったのは、ごく最近のことだ。 そうして2003年8月末、『おおさまのみみ』というHPに辿り着いた。 管理人のちまさんと、いろいろと話をするようになって、想いを言葉にしようと思うようになった。 小耳症だからといって、泣く必要も、心を痛める必要はないんです。 私は泣き顔より、1つでも多くの笑顔が見たい。 私は私なりのやりかたで、これから頑張っていきたい。 そして私にはまだ、顔面神経麻痺の問題が残っている……。
by curumi-e2
| 2014-02-15 00:41
| 小耳症回想録
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